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執筆者の写真共用アカウント 岩手

活動報告 「あなたにとって地元とは」

~岩手県宮古市田老出身、加倉侑輝さん~




2011 年3月11日、東日本大震災が発生し、東北地方を中心に大きな被害が発生した。中 でも太平洋沿岸の被害は大きく、津波で多くの命が奪われ、建物が流されてしまった。街は 変わり果ててしまったが、それでもボランティア活動などを通して被災した地元に貢献し ている方がいる。今回は、岩手県宮古市田老出身で、津波を目撃し、その後はボランティア を通して復興に携わった加倉侑輝さんを取材した。


加倉さんの半生を追いながら、当時の体 験や、地元への思いを尋ねた。




 


インタビュー

---よろしくお願いします。ではまず、生年月日と生まれた場所を教えてください。

「平成10年2月27日に宮古市で生まれました。」


---生まれた時から田老に住んでいる、ということでよろしいでしょうか。

「そうだね、ずっと田老に住んでいました。」


---小学生に上がる前に夢中だったことはありますか。

「ウルトラマンとかが好きだったかなぁ。」


---では、小学生のころに夢中だったことはありますか。

「野球だね。同級生が先に野球をやっていて、かっこいいなと思ったから僕も小学一年生の 頃から始めました。スポ少でほぼ毎日、学校終わりに練習をしていました。ポジションはピ ッチャーかキャッチャー。小さい小学校だったので、他にも大会のたびに部活動が発足して いたね。」


---小さいころの夢って…

「プロ野球選手!」


---小さかったころ、地元のことをどう思っていましたか。

「うーん…、街全体が遊び場で近所の人とも色々な関わりがあったね。悪いことをして怒ら れたり、一緒に遊びに行ったり…。何の違和感もなく、同級生と遊んで、野球をやって、そ ういった当たり前の日常を過ごしていました。」


---今考えれば、当たり前じゃなかったことってありますか。

「自然の中で遊ぶこと、近所に人がいることが当たり前じゃないなって感じたことがあり ます。震災後だと、街や自然の中で遊ぶことやお使いに行くことが、実は当たり前じゃない んだなってことに気づいたね。」


---ありがとうございます。では、震災当日のお話について伺いたいです。地震が来たとき、 どこで何をされていましたか。

「中学校の卒業式の前の日で、卒業式の練習を体育館の中でしていました。」


---揺れが来て、最初に何を思いましたか。

「いつもの揺れとは何か違う感じがしました。なんというか、地球全体が揺れているような …、そんな感じ。」


---津波は見ましたか。

「うん。逃げた先の裏山で町全体が湖になっているのを見たね。裏山に逃げるときに、バコ ーンバコーンと音がした。津波が堤防に当たる音だったのかな。山肌をよじ登って逃げまし た。」


---地震が来てから、どのように行動をとったのでしょうか

「一回逃げました。でもそのあと、塀に囲まれているところにいるお母さんと子供を見つけ たんです。そこは津波が見えない場所。だから先輩たちと協力して引っ張り上げ、救助しま した。他にもおばあさんを助けようとしたんだけれども、途中で脳卒中になってしまい動け なくなってしまった。しょうがないので、どうにか避難させました。他にも、避難誘導や救 助などを誰かに言われたわけでもなく自発的にやっていた。ただ、それのせいで集合場所に いなかった。消防団をしていた父に『何してんだ』とキレられたな。」


---震災当日、何が一番不安でしたか。

「うーん…、家族が生きているかとか…、もう、後の事とか全部が不安だったね。」


---3 月 11 日に一番印象が残ったことって何でしょうか。

「自分自身が避難したこともそうだし、他にも人を助けたことや、役場にあった一枚の毛布 だけで 5 人で寝たことや、自販機を壊して飲み物を手に入れてみんなで分け合ったことと か…」


---3.11 の後に大変だったことって何ですか。

「もう全部。とにかく生きるのに必死だった。インフラが壊滅状態だからね。そのせいで、 ある意味大人になったような感覚がしたなぁ。」


---学校が再開するのにはどのくらい時間がかかりましたか。

「インフラが復活するのに一か月、学校が再開するのには一か月半かかったね。」


---学校にいけない間は主にどんなことをされてましたか。

「水汲みをしたり、支援物資をいろんな避難所に回したり。あと、友達と30分くらいかか る場所に自転車をこぎながら行ってボランティアをしていました。」


---学校が始まって最初に思ったことは。

「ずっとボランティアをしていたい気持ちだったね。街にはまだまだがれきがいっぱい残 っていたし、復旧が全然進んでいなかったからね。」


---そうなんですね…。ところで、加倉さんは震災後にできた野球場(キット、サクラサク球 場)の建設に関わっていた、という話を伺いました。その時の話を聞かせていただきたいで す。まず、どのような経緯で建てられたのでしょうか。

「震災後、どのように復興していくかを話し合う復興会議というものがあって、そこで野球 部の同級生たちと一緒に訴えまくったね。とにかく野球がしたかった。」


---どうして声を上げたのでしょうか 。

「野球がどうしてもしたい、その一心だね。」


---どんなところで協力できたのでしょうか

「とにかく声を上げ続けたね。といっても、中学生にできることは限られているから、あと は支援物資の支給などの手伝いをずっと続けていたよ。」


---野球場ができた時、どんな気持ちでしたか。

「球場が完成したのは自分が大学生になった時。できたときは、『やっとできたな』という 気持ちになった。地元の子供たちにここで野球をやってほしいなという思いであふれたね。」


---中学校卒業後は花巻東高校に進学。その時は寮暮らしでしたか。

「そう、寮暮らし。田老には一年に一回くらいしか帰れなかったね。」


---どうしてその道を選んだのでしょうか。

「野球をやりたい一心。でも、たまに帰ると復興が進んでいるなーって感じるところがたく さんあってね、もどかしさも感じていたよ。自分もボランティアに参加したいなって気持ち が強かった。いつも一緒にいたグループの友達は田老に残ってそういった活動を続けてい たんだけど、自分もそこに混じって活動したいなって思っていたりもしたね。」


---その後、大学ではどのようなことを学んだのでしょうか。

「社会福祉とは何だろうか、幸せとは何だろうか、ということを主に学んでいました。」


---今の仕事を選んだきっかけを教えていただきたいです。

「大学で人を幸せにする方法を学んだことがまず一つ、あとは街が消えるのが嫌だった、と いうのもあるね。街に関することに関われるかな、という思いでこの仕事に就きました。」


---どうして、復興に携わろうとしたのでしょうか。

「家が残されていたから、というのがまず一つかな。当時は中学生だったから引っ越すとい う判断を決めることはできなかった。それと、ある種の使命感もあったかな。自分の家は流 されずに残ったんだけど、それが故の後ろめたさもあった。だからこそ、復興に手を貨さな ければ使命感を感じていたのだと思う。」


---他にも、復興関連で関わったことはありますか。

「直接形に残ったのは球場かな。あとはもう人情だね。物資を30分かけて避難所に運んだ り、物資を仕分けたり、避難所の運営をしたり…。」


---今の「地元への思い」は

「今は違うところに住んでいるけど、いずれは実家に帰りたいなって思っているよ。ずっと 地元のままであってほしいね。今の田老よりも昔の田老の方が好きだったな。なんというか、 他人行儀になってしまったね。避難所に物資を届けていたけれど、僕は家が残った人、でも 届ける先の人の大半は家を失っているから、白い目で見られることがいっぱいあった。『家 が残ったやつが何だ』といった具合で思われていたのだろうね。津波によって壁ができてし まったように感じる。また、高台移転をしたから、被災した人が集まっているエリアと、そ うでないエリアがある。そういった意味でも見えない壁ができてしまったなと感じている よ。」


---震災を通して、地元への思いはどのように変わりましたか

「昔の田老の方が好きだった、ということに気づいたことかな。」



田老の海、大きな防潮堤の上で撮影 美しい青さがとても印象に残った。 3 月11日、この海が濁流となり街を 襲ったイメージがつかなかった。



田老の貯水施設 壁に津波の高さが記されている 東日本大震災は最も高く、屋根付近まで 到達していた



 



インタビュー後に感じたこと

 想像というか、覚悟している何倍も重みのあるインタビューであった。


  私は津波に関わった人から直接話を聞くのは今回が初めてである。親戚が宮城県の仙台 や亘理にいたので、周りの人よりはある程度震災になじみはあると思っていた。亘理の家は、 津波の被害を受けていたし、その様子を実際に見ることもあった。だが、今回の話は想像を 絶するほどであった。自分はまだまだ知らないことばかりであるのだと痛感した。


 まず、津波そのものの話を聞くのが初めてであったが、ここでかなりの衝撃を受けた。昔、 日本製紙石巻工場の再生についての話を本で読んだことがある。そこでは、石巻を襲った津 波についてかなり詳しく書かれていた。それを読んだとき、景色を想像するだけで恐ろしい 気持ちになったが、今日津波の話を聞いた時の感情は、それに近いものであった。話を聞い ただけではあるが、ものすごい恐怖感を感じた。


 ただ、それよりも心に残ったことがある。インタビューをするなかで出てきた、

「津波で壁ができてしまった、昔と変わってしまった」

という言葉に、私はものすごい重みを感じた。もともと私は被災者のくくりを東北と関東で 分けているものだと思っていた。ただ、実際は津波に襲われた地域とそうでない地域、いや、 もっと深く分けると、家がなくなってしまった人とそうでない人とで分けられている、とい うことを今回のプロジェクトを通して学んだ。おそらく、もっと細分化することもできるの だと思う。津波が人々を分けてしまった、ということを聞いた時、私はかなりのショックを 受けた。元々は、地域内に壁などはなかったはずである。それは、加倉さんの話の序盤を聞 いていれば容易に想像がつく。それが、いつしか他人行儀に変わってしまったことに、私は 虚しさを覚えた。津波は多くのものを流してしまっただけではなく、いつ消えるかわからな いような大きな壁まで残していった。そんなことはインタビューをするまで想像がつかな かった。


 大学のある授業で、震災遺構の保存についての是非について問うレポート課題を課され たことがある。その時、私は保存するべきであると書いた。これから先、震災を知らない世 代の人が必ず増えていく。そのような人々に過去の出来事を伝えるには、視覚に訴えるのが 一番良いと考えたからである。しかし今回のインタビューを経て、その考えに揺らぎが生じ た。ある人の大切なものを奪い、また、大きな壁を残した震災の遺構を見たくない、という 人がいるのは間違いないと確信できたからである。震災遺構には、残されたものと取り壊さ れたものの両方がある。いずれの決断をするにしても、かなりの議論が行われたであろうこ とは容易に予想がついたし、本当に難しい問題であるとも感じた。


 今回のインタビューで、私はかなりの衝撃を受けた。津波は、人々から様々なものを奪い、 また、様々な壁を残していった。正直、この話を関東出身の私がまとめていいのか、という 思いもある。しかし、伝え続けなくてはいけない内容であるとも同時に深く実感した。私は、 震災から12年がたって初めてその本当の爪痕をほんの一部ではあるが知った。震災の恐ろ しさを本当の意味で知った、とも言える。たいていの人は、私のように本当の爪痕、本当の 恐ろしさを知らないまま12年の歳月を過ごしているだろう。ところが、時間がたてばたつ ほど、努力をしなければ伝える機会は減っていってしまう。また、これから先、震災を知ら ない世代の人も増えていく。しかし、人々から多くのものを奪い去り、地域内に大きな壁を 残すほどの出来事を風化させてしまってよいとは思えない。少なくとも私はそう感じた。ま た、将来首都圏や東海地方を中心に大地震が起こる可能性が指摘されている。3.11 の話が 伝承されていれば、災害への備えの促進につながることも期待できる。そのような点から、 やはりいろいろな人々に話を伝え続けなければならないと感じた。




大きな防潮堤 草原にかつては家が建っていた



















津波で大きな被害を受けた 田老観光ホテル 鉄筋がむき出しになっている

















田老駅から いつかまたにぎやかな街に 戻った時、訪れたい



















取材・文:西條匡杜

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